ある夜,彼女が突然に現れた.いつものようにぞっとする彼女が.だが,あまりにも現実的で,私は夢遊病者のようにベッドの上に身を起こし,あえぎ声を立て,冷や汗にまみれて目覚めた.こうした不気味な交流が20年間つづき,前触れもなく古い映画の再演のように繰り返された.不可解で呪いのような悪夢が.この老女,彼女は何ものなのか.なぜこのように,何年も私につきまとうのか.
私は子ども時代をプロヴァンスで過ごした.他人と違う徴候は早くから生じている.突然に起こる精神的な危機,家族や周囲の人の振る舞いに対して無理解あるいは不当と感じたときの強い感情的な反応,病的感受性のしるしと言えるようなもの.生まれつき小さかったり大きかったり,痩せていたり太っていたりするのと同じく,だれもが性格的な素質,身体的な特徴と同様に受け継いだ心理的な資質を持って生まれてくる.脳と中枢は遺伝コードに含まれた指示に従って作られている.この遺伝コードが,人格を条件づける生物学的な,ホルモンの,そして化学的な,バランスとアンバランスを決定するのだ.抑鬱症的な傾向は,青い目や赤毛のように家族に伝えられる.そのことを私が理解したのは,50歳を超えた私の父が肘掛け椅子に座り込み,なぜだかわからない理由で,子どものように泣きじゃくっているのに出くわした日だった.同時に私が,なぜ初めからうまく行動できないのかに気がついたのだった.
後に,こうした内的な不調をなんとかしようとして,心理学と精神分析の本を読みあさった.そこでは,ヒポクラテスと四体液―そのうちの胆汁が憂鬱の元になる―以来,性格における先天的なものがどれだけ特別視されていたかという伝統を教えられた.責任はパパにあった!だがまた,フロイトと精神分析学派が幼児期の体験を強調していることも発見した.責任はエディプスにあった!最後に,ムニエのなかで意志がどのように働くかを読むことになった.性格は作られてしまっているものではなく,作るものだというのだ.責任は私にある!
とりあえず,堪え忍ばなければならない.なにを私は堪え忍んだだろう?あるいは,なにを堪え忍んだと思っているのだろう?マルセイユで,夜,父は私を抱いて,窓から空が明るくなるのを見せた.最初の爆撃だった.私たちはマルセイユを出てアプトの祖母の家に避難した.私が覚えているのは,サロンのなかをドイツ軍の将校が歩き回っている間,ミミのグランド・ピアノの下に隠れていたことだ.将校の黒く光った長靴が敷物を踏み鳴らしていた.だが,ミミのピアノはアップライトだったはずだ.またあるときは,ゲシュタポに捕らえられた.拷問を受けるのではないかと恐れて息を凝らしていた.それで,鬼のような人たちから逃れるために,窓から身を投げたのだった.ときどき,死んでしまうこともあった.つまり,目が覚めてしまうのだ.悪夢がつづくのでなければ.
インドシナ戦争,汚い植民地戦争.いくつかのエピソードが頭から離れない.カオバンの道での待ち伏せがそうだ.多数の外人部隊の兵士の命が奪われた.そうしたエピソードが悪夢をはぐくむ.恐怖の夜,稲田,待ち伏せの不安のなかで転々とする隊列.最後に,黙示録,ディエンビエンフー.堡塁につけられた若い女性の名前,イザベル,ベアトリース,ガブリエルが,ラジオでひっきりなしに繰り返される.血まみれの数珠の玉をつまぐるように.フランス軍の捕虜の痛ましいイメージ,窮乏生活のために痩せ細った身体の兵士,下士官,士官たち.顔は苦悩でやつれ,一人ずつ列を成して歩いている.富者の貪欲,権力者の無能の報いを受けた罪のない人たち.ああ,少年期の情けない思い出!
中学生のころは,灰色の無気力な悪夢,醜悪と苦悩の国への旅,冷えたラードの吐き気をもよおす匂いのする食堂での豚の毛のついた耳,詰まりすぎた便所から冬の中庭に寒さで凍って放り出される排泄物,尿で黄色くなった氷の下の糞の層,夜になると黒の僧服が鍵で閉める仕切り部屋,熱すぎる浴室の浴槽の湯気でかすんだ霧の中で,少年たちの白い裸体が動く一週間に一度の集団でのシャワー.それに,木曜日ごとに紺のサージの制服を着て,冷たい北風の吹く街路と水が低地にあふれ出しているローヌ川の土手の上を無言で列を成して歩く散歩,暗雲が棚引く鉛色の空に浮き出す黒い樹木のねじれたシルエット.私はどれだけの年月,締め付けられた思いで,陰気な廊下を歩き回り,カフカ的な階段を昇り,みすぼらしい大部屋の寝室の迷路をさまよい,教室を探して見つからず,いつも遅刻していたことか?
ひ弱になっていた.私はこわれものにされていた.かわいそうな家の人たちは,ためになることをしようとして,ためになると信じて,知らずにためにならないことをしていた!それで,有無を言わせない権力の下で閉じられた世界の加虐的な偏向を経験したことで,権力のあらゆる形態に対して毛嫌いをするようになってしまった.彼らは礼儀正しいブルジョワを育てたつもりだったが,育ったのは隠れアナキストだった.
“チビ”はパリに出た.プロヴァンス訛りと裁断の悪い衣服のせいで落ち着かず,尊大な貴族階級と大富豪の中で途方に暮れた.パリは北の都市であり,マルセイユやアヴィニョンやナポリよりも,ロンドンやベルリン,さらにはオスロやストックフォルムのほうに近い.空が灰色なだけではなく,建物,自動車の車体,人びとの衣服,すべてが灰色であった.
学生の騒乱が突発した.機動隊が警備,襲撃,殴りつけた.夜になると,この都市ゲリラの悪夢がよみがえった.ヘルメットとレザーと長靴の男たちの棍棒から逃れようとして,走り,息切れし,絶えず追いかけられ,見つけられ,逃げる.密集した機動隊の列,交差点を封鎖した恐怖の鉄の軍団.ああ,ペール・ド・ゴールの時代の警察は手加減をしなかった.アルジェリアで犯された残虐行為のイメージが駆けめぐる.手足のない子ども,女性,殺された老人の身体.パリのアラブ人迫害の犠牲者の死体がセーヌ川に浮かび,海に流される.学業のおかげで,私はアルジェリア戦争に行かないですんだ.
毎年,プロヴァンスでの夏のヴァカンスだけが,ほかの単調で陰鬱な季節を追い払った.そこでは,暑さが日の光を振動させ,青空に強烈な奥行きをあたえる.黒い糸杉で縁取られた畑に果樹と野菜,オリーヴの木の節くれだった幹と銀色の葉,黄土色の地面に整列した紫色のラヴェンダーの列,小道の上にプラタナスのさわやかな緑色の葉の天蓋や,小川から生え出た葦から織りなされる景観,その繊細な色彩と微妙な階調が魂を魅了するのである.ヴァン・ゴッホがそれに酔いしれたのだった.私は後になって,物がよく見えない少年期と思春期の霞が取れたたときに,彼がそのために死んだことを知った.
2千年以上も前から,人びとは気候と自然に恵まれたこの土地を魅惑的な居住地にしようとしてきた.ローマは,風景のなかに自然にはめ込まれる都市と
|